Metzdorf back
statement
妻を日本に置いたまま向かったドイツでのアシスタントの日々の舞台はベルリンから旧東ドイツ地域へ3時間。  今でこそグーグルアースで細かな路地まで視認できるようになっているが、1990年代当時は大使館やドイツ文化センターの地図にも載っていない寒村でのことだった。  栃を中心とした美しい紅葉と深い闇をもつ森の中にはいくつもの湖沼があり、鹿たちをおびき寄せる間伐地に降り立つ柔らかい光があった。  東西統一から間もない時期でもあり、村の男たちは大概が仕事にあぶれアル中で、中学生になろうとするのに自分の名前さえろくに書けない子供たちが僕の遊び友だちだった。石造りの簡素な彼らの家々には1700年代の竣工の年代が刻まれていた。   アトリエの正面は広大な牧場で、時折牛たちが群れとなって現れ、金網に近づいては私たちに何かくれと長い舌を出した。水平線の向こうまで続いていそうな牧場には鹿たちがふいに数頭ずつの集団で現れた。遠くから我々人間の姿を認めると、軽やかにしかし怯えた様子で駆け出すのだった。   村を貫く舗装された道路の向こうにはじゃがいもやトウモロコシの畑に並んで、廃墟のある広大な空き地があり、そこでは多数の羊たちが犬に追われて右往左往していた。その場所は統一前にはアヒルの養殖場で、缶詰にされたアヒルの肉は全てソ連へと送られ、東ドイツの人々はそれを口にすることはなかったという。  私はそのような環境の中でキャンバスに膠を塗ったり、オーブンやセラミックのストーブのための薪割りをして過ごした。マイスターはそれらを作務と呼んでいた。日課は禅式の瞑想で、身体技法に興味のない私は半信半疑ながらも心の鎮め方を教わった。彼は私に1人での外出を禁じた。隣町のイタリア人の家がネオナチに襲われたばかりだという。そんな時代だった。   マイスターは絵画と彫刻を専門としており、写真は芸術ではない(だから早くやめろ)と事あるごとに言っていた。私は写真は芸術ではなくても一向に構わないが、芸術はメディアを問わないと主張した。私はまだ20代で我々の間には40年の歳の開きがあった。しかしそのような意見の相違は個人の考え方や芸術をどうとらえるかの違いであり、年齢の問題ではないこともわかっていた。さらにはそのような意見の相違があったとしても僕が彼に敬意を持ち続けることに変わりはなかった。とはいえ、結局私はそこを飛び出して、ベルリンへさらには東はオデール川に至り、西はケルンを中心とする諸都市へと向かったのだった。それらドイツでの生活と旅の中で見て感じ、考えた諸々のことからこのシリーズは成っている。
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