映像の起源として挙げられる、古い話——通常は絵画の起源とされるのだが——プリニウスの「博物誌」の
なかに出てくる、コリントスの陶工の娘の話を思い出そう。出征を前にして(おそらく最後の)晩さんに訪れ
た恋人の影、壁に映るその影の輪郭を燃えさしの炭でなぞり、それを型として後日父親がレリーフを作ったと
いう。
ここには、光源とそれに照らされた客体とそこから投射される影があり、それを写し出す投影面があり、そ
こに刻み込まれた痕跡があり、そのネガ像ともいうべき影の痕から、正像が得られている。
影の映る壁を見る人は壁を見ているのか、影を見ているのか、影から連想される影の主を想起するのか。そ
の全体を、またその各々を行きつ戻りつしているのか。
我々は写真そのものを見ることができるのか。
大事なのは、消え去り行く影を永遠に手の届く所にとどめたいと願った、狂おしいほどの感情だ。たとえそ
れが愚かで、時には醜悪なものとさえなる契機を秘めているとしても。