光は写真にとって必要なばかりでなく、我々の視覚にとっても第一義的なものである。太陽の優位にある昼間に
比べ、闇に支配された夜は様々な光の交錯する場であり、 また視覚の限界とその不完全性にも行き当たる場所
である。闇は生理的な恐怖の源であり、同時に未知の未解明の事物への知的な恐れの向かう対象でもある。
●カメラは1つの闇、暗箱であり、そこに光が射すことが像を結ぶ契機となる。
たとえカメラを使わずとも、感光材料に光が当たることが写真にとって最小限必要な要件であることは疑う余地
のないことであろう。
闇を駆逐するための我々の発明、夜の光の源は、昼間の光である太陽と同じく、燃え盛る炎である。火と文明と
の結び付きはあまりに強く明白である。私は火を見る度に、原初の炎、人類が始めて利用を試みた火のことを想
わずにはいられない。そのとき私は、一瞬だけ古代から現代のあらゆる時空に繋がり得る自己を幻想し、深く揺
り動かされる。一体この体験は何なのかと。
火は我々と我々の社会を今あるようにさせた最も探い根の内の一つである。人間界に火をもたらしたプロメテウ
スが永遠の罰を受けることになったのも、神々の仕業であった現象の一つ一つを人間が科学的合理的に解明して
いく端緒となるであろうことを、神々が予見してのことであったのだろう。火は輝き揺らめく、禁断の知恵の実
の代表なのである。
火は伝統的に人間精神の象徴とされてきた。オリンピックを単なる運動会にしていないものこそ、天上からオリ
ュンポス山に遣わされた聖火である。これを頂くことで、荒れ狂う肉体の力は人が定めた競技とルールの中に統
御され、平和俚に戦うことを可能にする。
精神と肉体との高度な統合を遂げた勝者の頭上に捧げられる月桂冠を良く見てほしい。この王冠を形づくるロー
レルの葉の1枚1枚は水と大地から生まれた緑の火焔なのだ。
桂冠詩人とはその精神と技によって称えられ、火の、光の冠と後光を授けられた者と言える。
火の利用は煮炊きを始めとする食料の加工と保存や、夜闇を駆逐し、暖をとるといったところから始まったと思
われる。前者においては五感の発達とそれに伴う知能の急速な発達を生ぜしめたであろうし、後者においては心
理的な安定や環境への適応能力を高めたであろう。しかし火はその莫大なエネルギー創出能力ゆえに破壊の炎と
もなり得るものである。端的に言ってそれは手づかみできぬものだ。単純な火傷や火災に始まり、より高温を可
能にする炉や器の発明は権力の地図を塗り替えてきた。それは破壊とその恐怖による支配であり、もちろん現代
に続いている。
火は我々に恩恵と浄化をもたらす炎であると同時に、破壊と恐怖の源でもある優れて両義的な(それゆえ魅惑的
な)存在である。
我々の眼は、視覚は、火(光=太陽)を基に発達した。
火は人間そのものと謂えないだろうか。
そして思い致すべきは我々生きるもの全ての胸の中に、常に燃える小さな焔のことである。
呼吸もまた一つの燃焼であり、そしてそれこそがこの世界を、ひいてはこの字宙を照らしだし暖める炎となりう
るものなのだ。
そしてその火が消える時、我々は死と呼ばれる現象を迎える。我々は各々に闇を抱えつつも、地上に燃える一つ
の炎、火(日・陽・灯・燈・霊)に他ならない。